私は30年近く美術教師をやってきました。それに加えてここ数年は土曜や、夏休みにコミュニティースクールという社会人の教室でクロッキーや水彩画を担当しています。楽しみながら皆さんとたくさん絵を描いてきました。スケッチで訪れた長野やバリ島やアイルランドやスイスやカナダに友達ができました。そんな中で回顧展を開くことが一つの夢となってきました。もう長いつきあいの昔の教え子が献身的にこのサイトのデザインと制作を引き受けてくれました。とうとうインターネットの上で夢が実現しました。皆様に感謝致します。 上原 収二
私は油絵を現場で描いたことがありません。そこで油絵は画室で写真やスケッチを参考に仕上げます。制作中はできるだけ現場にいるような気分になるよう心がけます。するとどこからか波の音が聞こえてきたりそよ風を感じたりします。銀色の朝の街の景色、水平線の上の黄金色そんな瞬間に掴んだ色を自由にキャンバスの上に載せてみたいと思っています。

なかなか具合のいい地塗りを見つけました。アーチスタフォルモという細工用の粘土とジェッソを混ぜた物です。適度に油がしみ込み、引っ掻いたり削り落としたりもできます。ちょうど水彩の場合の粗めのコットンの重い紙に似ています。何か自由に油絵の具を扱える方法を探しているのです。

我が家はアイルランド、バリ、妻の田舎の長野へ旅をしました。それらの地が風景画の題材となりました。横浜にいるときには昼時を庭で過ごすのが好きです。ビールがあるともっといいです。

震災の直後に神戸に行きました。瓦礫の山と押しつぶされた叫びをデコボコの縦長の壁画風画面に描きたくなりました。

1995年に地元横浜で初めて展覧会をしました。以来、毎年横浜で個展をしています。以前は長い間絵を名高い銀座で発表することにこだわりそれを追求してきました。銀座では人々は早や足で画廊を飛び歩いているようです。一方横浜ではちょっと立ち寄っては椅子に座ってお茶をすすり、お喋りをしていきます。そして知り合いが増えることになります。多分横浜には画廊がまばらにしかないのでそうなるのでしょう。

私は大きな絵を金具を使って前後にずらして飾ったり、大きな絵を壁と天井に懸かるように斜めにつるしたりしました。その頃は小さな絵は全然描きませんでした。絵を描くこと、そして発表することは私個人の意識としては今のそれとはまったく違った意味をもっていたのです。展覧会を通して話題を作ろうと企てていたのです。大きな絵で大口をたたくと言うようなことをやっていたのです。見る人が私と話したいのか、いなかなどお構いもしませんでした。

身近な題材を描くようになりました。親しい友人や、家族や、家の中や外など。

1987に初めて海外に旅行しました。しかしこの展覧会はその旅行の前に開きました。私はまだ混沌の中にいました。ちょっと休んだ後再び壁画のようなのを描きたくなりました。だけどこの時は立った姿勢で絵を描こうと決めていました。そこで木枠に張ったキャンバスを使いました。そしてそれを12枚連結しまして、そしてぴったり合わない壁に飾りました。結果的にゆがんで展示されました。そしてその結果に満足していました。

混沌とした状態の中で、私は楡の木画廊で5回の展覧会を持ちました。それは1984年に画廊の倒産で終わることになりました。終わるまでの4回の展覧会で、私は壁画のような絵のシリーズを描きました。それは画廊の小さな入り口に対処するためとあふれるイメージを表現したい欲求との偶然の産物でした。

私は現実や実生活にはあまり関心がありませんでした。幻想と夢物語の中に暮らしていました。映画とテレビの世界を受け入れ。雑誌の写真を飛ばし見て。画面の向こう側からは決してこちらに出てこない安心なメディアにひたっていたのです。結論的に貧しい若者の娯楽だったのです。引き続く数年間谷底に落っこちたままでした。